本文までスキップする

Blog
ブログ

看取りの喜び

    今年最後のブログ更新をどういう話題にしようか悩んだのですが、難しい話題になってしまいました。
    さてタイトルはなんだか矛盾があるように感じる方もいるかもしれませんね。看取るということは悲しいことであるのが一般的かと私も思います。

    少し話が変わりますが、在宅医療を選択する医師はあまり多くはないと思います。
    というのも在宅医療では看取りをすることも多いですし、認知症や神経難病などに代表される現在の医療では治癒が困難な病気の患者さんを診ることが多いからです。普通に考えればやはり医師となって何をするか考えた時には「病気を治す」ということが王道でしょう。そういう意味では「看取り」というのは「病気を治す」という観点から考えると「病気を治せなかった」という事実に他ならないわけで、達成感ややりがいなどを感じにくいのかもしれません。
    私もまた患者さんにはできるだけ長く元気でいて欲しいですし、看取りに際して寂しさや悲しさもあります。ただ現実としてどれだけ医学が進歩しても人が亡くなるというのは避けられないものですし、治せない病気というのも未だ多くあります。その中で「いかにつらい症状を減らして、楽しい時間を長く過ごしてもらえるようにするか」ということが在宅医療を行う医師の仕事のひとつであり、やりがいでもあると思っています。
    患者さんが日々の生活の楽しみ、例えば自宅で過ごせることや好きな食事を摂れること、何らかの趣味を続けられることなど、何についてであってもそういった日々の些細でも生きていくのに大切な楽しみを享受できることを、私も嬉しく思いそれをお手伝いできることに達成感ややりがいを感じています。

    そういったやりがいを看取りの際にも感じることを指してタイトルの看取りの喜びと書いています。なぜ看取りでも同じような感情を抱くのかというと、私が患者さんの最期の時もまた患者さんの人生、生活の一部だと思うからです。
    例えばわかりやすい例では、最期は自宅で過ごしたいか、病院で過ごしたいか、という選択があります。これらはどちらも間違いではなく患者さんが望む方が正解ですが、どちらの場合でもそれを実現できた際には、最期の瞬間までその患者さんの人生をより望む形にするお手伝いができたと思いますし、そういった部分には喜びを感じます。亡くなること自体は悲しいことですが、その中にも喜びはあると思いますし、これは病気を患ってしまったこと自体は悲しいことだけれども、その中でも日々の生活の楽しみは確かにあることと同様だと思います。

    仕事柄、ということかもしれませんが人が亡くなるということは人が生きるということの一部だと思うので、このように考えるのかもしれません。患者さん本人やそのご家族が同じように考えることは当然難しいと思いますが、経験上は同じように患者さんの望む最期を迎えることができるという喜びをご自身やご家族にも持ってもらえることも意外に多い印象です。これは単純に患者さんの希望を叶えられた、ということで喜びに至るわけではなく、それまでの希望を叶えるための日々の生活の積み重ねの結果としてそういう喜びを抱けるようになるということだと思います。このような変化を生み出す手助けとなることもまた在宅医療における大切な役割だと考えます。
    死は悲しく寂しいものですが、それがただ単につらいだけのものにならないように、少しでもある種の喜びの要素を持たせられるように、来年からも頑張っていきたいと思います。

    次のブログは新年になると思いますし、せっかくならもう少し明るい話題にしたいですね。
    それではみなさんよいお年をお迎えください。